ベガルタ仙台クラブ設立30周年
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30年の軌跡

ベガルタ仙台の30年間の戦いと、
その舞台裏をみてきた関係者が
それぞれの視点で綴る
「ベガルタ仙台 30年の軌跡」

VOL.06

実況アナウンサー

下田恒幸

下田恒幸

東京都町田市出身。1990年4月仙台放送入社、2005年10月まで在籍。現在はフリーランスの実況アナウンサーとしてサッカーを中心に活動中。
1980年まで4年間ブラジル・サンパウロに在住。その時に出会ったラジオのサッカー実況がきっかけで実況アナウンサーを志す。仙台放送在職中にブランメル仙台が発足。最初の公式戦となった95年1月の全国地域リーグ決勝大会1次ラウンドから2004年まで、ほとんどの公式戦を現場で取材した。取材した際は全て現場で実況をつけてカメラのサブチャンネルに音声を収録。夕方のスポーツコーナーで使う振り返りのVTRの中で、その音声を部分的使用して他社との差別化を図った。今でも仙台放送に眠るブランメル/ベガルタの試合取材映像には当時の実況音声が入っている。
フリーランスになってからはサッカー実況が主戦場。2010年ワールドカップの日本対カメルーンをはじめ、チャンピオンズリーグ決勝や、本田対長友のミラノダービーなどを現地で実況するなど経験豊富。

最初の10年の追憶

仙台を離れて間もなく20年になる。
つまりブランメル/ベガルタを当事者として取材したのは、クラブの歴史の1/3でしかない。サッカー人として情を手向けるものがブランメル/ベガルタしかなかった当時と比べ、仕事として扱うリーグもクラブも圧倒的に増えた。全てのクラブ、リーグに対して同等に情を手向けたいタイプだから、ベガルタ仙台への感情は当時とはかなり違う。それでもなお、心のどこかでこのクラブのことは常に気に留めている。なんといっても自分のサッカー実況者としての礎を作ってくれたクラブだから。

実況者としての骨組を作ってくれたクラブ。 そして取材者としての原点。

2015年UEFA EUROPA LEAGUE決勝の実況を担当

記憶が確かなら94年11月。
底冷えする多賀城の東北電力のグラウンドで初めてブランメル仙台の練習を取材した。チームはJFL昇格をかけた地域リーグ決勝大会を目前に控えていた。まだ土のグラウンドで練習していた時代である。足の先の感覚がなくなるほどの寒さだったが、鈴木武一監督が目指すものを聞き、期待感に熱くなったのを覚えている。その期待感は、難易度の高さでは日本屈指の地域リーグ決勝大会をすんなり勝ち抜いたことで否応なしに高まり、我々地元メディアは競うように彼らを報じた。「ひょっとして一気にJFLを突破出来るんじゃないか」。当時現場で取材していた我々取材者たちはそのくらい期待感を感じていた。

発足2か月後に開催された全国地域リーグ決勝大会を制し、JFL昇格を決める。

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ただJFLに昇格して感じたのは大きな違和感だった。
当時はまだ仙台スタジアムがなかったため、ホームゲームは利府町の宮城県サッカー場で開催した。アクセスは良くない。とはいえ客席は常にまばら。2部リーグ相当のJFLに昇格したということは、突破すればJリーグに上がれるのだ。にも拘らず、全く盛り上がらなかった。それどころか県や市からお金が投じられることに対し、地元の人間からの冷ややかな声もよく聞いた。もしJFLから即座に昇格出来ていれば歴史は大きく違っていたかもしれない。しかしフットボールの現実はそんなに甘くはない。Jリーグバブルに乗り、こぞって準会員となった当時のJFL組が押しなべて苦労したのはその証である。

96年、仙台スタジアムが開場する97年シーズンまでは
ホームゲームは利府町の宮城県サッカー場で開催。

1995年7月3日本田技研戦でJFL昇格後ホーム初勝利を飾る。当時の下田氏のインタビュー記事も掲載。
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30年で積み重なったもの

せっかくプロサッカークラブが出来たのに、大半の県民から大して興味を持ってもらえず、誤解を恐れずに言えば血税を食らう厄介者くらいに認識されることも多く、お世辞にも愛されていたとは言えなかったのが、このクラブの最初の5年である。前途多難を絵にかいたようなこのスタートを現場の最前線で見てきたものにとって、30年もの歴史を積み重ね、合計14季もJ1に在籍し、2012年に最終節までJ1優勝を争い、2013年にACLにも出場したことを考えると、それはとても感慨深い。今の自分に地元の皮膚感覚は正確に分からないが、30年の歴史を積み重ねて浸透度は飛躍的に上がり、今や好感度も高いレベルにあるのではないかと思う。

仙台スタジアムが開場した97年シーズンのホームゲーム平均入場者数は5370人ほどだった。

1997年6月1日仙台スタジアムのこけら落としとなった本田技研戦。14,145人のサポーターが詰めかけたが、120分の死闘の上、PK戦で惜敗。

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ではベガルタ仙台が宮城県民、仙台市民の誰もが関心を持っている存在となっているか?と問われれば、恐らくまだそこまでは達していない。サッカーファンは増えた。ベガルタがあることは恐らく誰もが知っている。ベガルタファンは安定多数存在する。でもベガルタに対して「関心を持って意識している人」がどこまで増えているか。そこはまだまだ掘り起こせる部分のはずだ。

2004年から6年続いたJ2時代の平均観客数は14000人台。コロナ禍前の2019年まで10年間のJ1時代の平均観客数が15000人台。決して悪い数字ではない。しかし仙台が100万都市であることを考えると、この数字はもっと上げられるのではないかと思う。現状では19000人収容のユアテックスタジアム仙台が、リーグ戦では常に満席になってチケットが取れないほど認知されるには至っていないのだから。

2024年シーズン、平均入場者数はJ2リーグにおいて
清水エスパルスに次ぐ2番目の集客数を記録。

この先の未来へ

創設から30年。様々なフットボール的な成果は上げた。
では次の30年。その前にまず最初の10年。もっともっと深くチームを認知してもらい、もっともっと観客動員数を上げるために、まだまだやれることがあるのではないかと思う。「毎回満席?毎回19000人?そんなの無理でしょ」と考えたら身も蓋もない。人口やスタジアムを考えれば、仙台にはそれが出来るだけのポテンシャルがあると考える。恐らくカギになるのは派手なことではなく地道なものの積み重ねである。

私が願っているのはベガルタ仙台のJ1定着でもJ1優勝でもない。
これだけの素晴らしい街があり、これだけの素晴らしいスタジアムがあり、これだけの素晴らしいサポーターがいるのだ。私が願っているのは、強くても、弱くても、J1にいようと、J2にいようと、J3にいようと、優勝を争おうが、残留を争おうが、凡庸に中位を漂おうが、ユアテックスタジアム仙台がいつも19000人の大観衆で黄金色に染まることだ。根拠はないが、仙台であればそれが出来ると思うのだ。

どうかこれからも、もっともっともっと多くの方に深く愛されるクラブになって下さい。

※執筆陣の原稿をそのまま活かして掲載しています。