ベガルタ仙台の30年間の戦いと、
その舞台裏をみてきた関係者が
それぞれの視点で綴る
「ベガルタ仙台 30年の軌跡」
岐阜県可児市生まれ、宮城県古川市(現・大崎市)育ち。 1972年東北学院大学卒業。1978年「青葉城恋唄」でデビュー、100万枚を突破するミリオンセラーを記録、新人賞を初め数々の賞を受賞する。その後、TBS金曜ドラマ「2年B組仙八先生」やNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」で支倉常長役として出演した。 1995年から今日まで、ミヤギテレビで「OH!バンデス」のパーソナリティーを担当しており、夕方の顔として宮城県民からは「宗さん」と親しみを込めて呼ばれる存在に。 1999年1月「ベガルタ仙台・市民後援会」の会長に就任。 2005年より宮城県に縁のあるアーティストで「みやぎびっきの会」を結成し、コンサートを通して県内の小中学校へ吹奏楽器リペア(修理代)の寄付を目的に支援活動を実施。 2011年・東日本大震災後は岩手・宮城・福島3県の被災地を初め、全国での支援コンサートにも積極的に出演するとともに、被災地の子ども達に特化した物的支援や心のケアを目的とする「びっきこども基金」を立ち上げ支援を続けている。
※「びっきの会」の「びっき」とは東北地方の方言で「蛙」と云う意味。故郷に「カエル」、故郷に「恩ガエシ」する、「壊れた楽器を元にカエル(戻す)」、音楽を志す子ども達(おたまじゃくし)を「蛙」に育てる。
市民後援会事務局に、原稿執筆の依頼をいただいた。「さて、何をお話すれば良いのかな?」と話したところ、「私たち(事務局)が質問しますので、それに答えていただくというのはどうでしょう?」という提案があり、その方が伝わりやすいかもしれないね、ということになりました。
この30年のうち特にベガルタ仙台とのお付き合いを密にしてきた市民後援会発足からのことをお話ししましょう。
― 宗さん(さとう会長)が市民後援会の会長を引き受けることになったのはどんな経緯だったのでしょう?
まずは、ベガルタ仙台、そしてクラブに関係する皆様、クラブ創立30周年おめでとうございます。30年の間にクラブを支えてくださった全ての方にお祝いを申し上げます。
私が市民後援会の会長に就いた経緯ですが、98年、ブランメル仙台の最後の年ですね、その年末に、佐々木知廣君(現・理事長)が私の音楽事務所を訪ねてきて「先輩、市民後援会というのを立ち上げます」ということで会長就任を要請されたのが最初だったと記憶しています。
私は、94年3月に発足した「東北にJリーグ誕生を願う市民の会」という団体の会長もしていました。その前年には、宮城県サッカー協会等が中心となって宮城県にJリーグクラブをという「30万人署名」が行われており、宮城にJリーグクラブをという機運が高まっていたところでした。そんなこともあって、学校の後輩でもあり旧知の佐々木君から会長就任要請になったのだと思います。
― 市民後援会を立ち上げて何をしたいという説明だったのでしょう?
就任要請があったときは、既に発足準備会の皆さんの協議が重ねられていて、やりたいことは沢山言われた記憶がありますが、彼(佐々木理事長)が早口なこともあって、ほとんど覚えていませんね(笑)。
この企画の執筆者のひとり、khb加川潤さんが市民後援会の具体的な活動を、楽しく書いてくれていたのをみて、そんなことも行っていたんだなぁ、と今更ながら振り返っています。加川さん、ありがとうございます。
もちろん記憶に残っていないと言っても、「ブランメルをなくしてはいけない」、「世界一地域に愛されるサッカークラブになって欲しい」ということを熱く語っていたことは鮮明に覚えています。
「仙台スタジアム(現・ユアテックスタジアム)」を、満員にして選手にプレーさせてあげたい」ということを熱く語られたら、断れませんでした。ブランメルの「経営危機」といったことは一部スポーツ紙でも報じられていた経緯がありますし、それよりも、満員のスタジアムを想像したら、私自身がワクワクしてしまいましたから。
ベガルタ仙台市民後援会発足のお知らせ
(月刊ベガルタ仙台vol.50より抜粋)
→詳しく見る(月刊ベガルタ仙台の記事にリンクします)
― その後、市民後援会は今年で25周年という長い期間、代々の運営スタッフにより途切れることなくクラブの後押しをしてきた訳ですが、宗さんからみて長く続いている秘訣というのはどう感じていますか。
市民後援会が発足した際に、仲間たちでルールを決めたというのですが、それが良かったのではないでしょうか。
具体的には、「クラブのパートナーとして、圧力団体にもならないけれど、下請け団体にもならない」、「スタッフは無理のない範囲で活動に参加して、事情があるときは休む勇気をもつ」、「試合の時間は、サポーターに徹して、活動はお休み」といったことを申し合わせしたそうです。
特に「クラブのパートナー」というところが鍵だと思いました。それは「私たちのクラブ」という認識が根底にあるものと思っています。強いチームであることは、それはそれで好ましいのですが、それだけではなく、地域から必要だと思ってもらえるクラブになるように支援していくことが最も大切だ、という考えですね。
クラブが「私たちのクラブ」と思えないようなクラブになってきたら、その時は強く意見することもある、ということだろうと思います。
発足時に、そう語って活動してきたことが、後の20年に非常事態に陥ったクラブのために、佐々木理事長を経営検討委員長、そして社長として送り込むことになるとは思ってもいなかったのですが。
― 30周年、宗さんの記憶に残る試合はどんな試合だったのでしょうか?
30年もあると沢山あって絞るのは難しいのですが、3つだけ挙げます。
ひとつは、「満員のスタジアム」を見てみたい、という思いもあって会長に就いたので、それが実現できた時は感激でしたね。市民後援会発足の翌年、2000年だったと思いますが、浦和レッズとの試合で「ほぼ満員」というサポーターの光景は鳥肌が立ったし、その翌年01年以降は1万9千人超えという試合が何試合もできるようになって、市民後援会を作って良かったと思えた瞬間でした。
なにせ、JFL最後の年、98年の開幕戦は3,600人余りの観客数でした。のちに市民後援会メンバーとなるサポーターが、テレビ写りが良いように、ブランメルカラーのビニール袋を膨らまして座席に貼った、という笑えるような笑えない話を聞いていましたから、なお更ですね。
当時、仙台スタジアム史上最多18,706人の観客を
記録した2000年4月23日浦和レッズ戦
(写真:月刊ベガルタ仙台vol.65より抜粋)
→詳しく見る(月刊ベガルタ仙台の記事にリンクします)
二つめは、09年12月の旧国立競技場での天皇杯準決勝ですね。ガンバ大阪戦は仙台からのツアーバス35台1,400人も含めて8千人以上の仙台サポーターが集結した試合でした。私も現地で応援しましたが国立の本当に晴れがましい舞台で戦えることに胸が震えました。
勝つことはできませんでしたが、当時の奥山仙台市長が貴賓席で皆さんから仙台サポーターの応援を誉めていただいたことを自分が誉められたように喜んでおられたのを覚えています。
最後に、11年震災後のJリーグ再開試合、等々力競技場での川崎フロンターレ戦は忘れることができません。テレビを通して試合を観たのですが、仙台サポーターの手をつないで一つになって応援する姿には泣かされました。応援するチームがあることが心の寄りどころになる、という素晴らしさを体感した出来事だったのです。温かく迎えてくれた川崎側のクラブやサポーターの皆さんへの感謝は今でも忘れません。
この試合が、昨年Jリーグ30周年のベストマッチに選ばれたと聞きますが、試合内容がすばらしいことはもちろん、プロサッカーの試合の一部はサポーターが担っているという点も証明してもらったのではないかと思います。
クラブ30周年の今年、市民後援会の仲間は「クラブの30周年は、サポーターの30周年」ということを強く意識して活動に取り組んでいますが、記憶に残る試合を通して見えてくることは、「サポーターの30周年」を実感させる試合ばかりでした。
2009年12月クラブ史上初となる天皇杯ベスト4進出
(写真:月刊ベガルタ仙台vol.131より抜粋)
→詳しく見る(月刊ベガルタ仙台の記事にリンクします)
― 30周年を迎えたクラブをご覧になって、宗さんの感想はいかがですか?
大きく成長したなぁ、というのが率直な印象です。他クラブと比較すれば中には「隣の芝生」のように見えることもありますが、仙台は、クラブ発足からしばらくは予算規模も小さく、マンパワー不足もあり社員が「やりたくてもできない」ことだらけだったことと比べれば雲泥の差です。
クラブ創立後の時期は、インターネットの普及が急速に進んだ95年頃からと同時期だったので、情報リテラシーへの対応は本当に苦労したでしょうし、試合のプログラム(仙台の場合は「V-Press」)等の発行も、クラブとしては手が出なかった状態でしたから。
それが、今は見違えるような情報提供が行われるようになっている、それひとつとっても隔世の感があります。
― これから市民後援会はどういう形でクラブを支えていくのが良いでしょうか?
今回、お話をさせていただくことで改めて市民後援会発足のときを思い出してみたのですが、結論としては、あまり変わる必要はないと思えました。
基本的に「私たちのクラブ」への愛情に満ちた運営スタッフの集合体ですから、時代の進化に合わせたテクニカルなものは変わるかもしれませんが、基本は何も変わる必要がないと思っています。
― ベガルタ仙台が今後どんなクラブになっていって欲しいですか?
いわゆる責任企業と言われる親会社をもたないベガルタ仙台は、Jリーグが発足時に掲げた「地域密着」を実直に行ってきました。経営規模の大きなクラブと比べると「絶滅危惧種」のような存在と言われるかもしれません。こういうクラブがJリーグにあってもいいんじゃないか、いやあるべきだ、そう思っています。
現在主要なスポンサーになってくださっている企業も、県民・市民が「私たちのクラブ」と思っている、このことを是としてご支援いただいているものと思っています。
一方で、クラブのこうした理念を理解してもらうためには、株主・スポンサーはもちろん、ファン・サポーターとも良好なコミュニケーションを取っていくことが大事なんだろうと思います。それを続けていっていただけるクラブになっていって欲しいと願っています。
2万人近いサポーターが、ベガルタ仙台を応援することで元気になり、ワクワクしたくてスタジアムに集います。それは、社会の縮図だ、と言っても良いと思います。
多様な人々が互いにリスペクトし、理解し合える空間をクラブとファン・サポーターが協力して創っていき、その関係性が地域に還元されていくことで地域が元気になっていく、そんな力をベガルタ仙台は持っていると思います。
40周年にどんな成長を見せてくれるか、楽しみです。
聞き手:市民後援会事務局
※執筆陣の原稿をそのまま活かして掲載しています。