ベガルタ仙台の30年間の戦いと、
その舞台裏をみてきた関係者が
それぞれの視点で綴る
「ベガルタ仙台 30年の軌跡」
神奈川県横浜市出身。1992年4月東日本放送(khb)入社。現在はスポーツ部兼アナウンス部勤務。
元々は高校野球、阪神タイガース、プロレスのファンでサッカーとは無縁だった。初めてスタジアムでサッカーを観戦したのは、テレビ朝日の研修(サッカー実況の研修)だった。1994年全日本大学選手権。観戦した駒澤大学の試合には、3年生の渡邉晋選手(後のベガルタ選手・監督)が出場していた。1995年4月ブランメル仙台がJFLに参戦したことをきっかけに、取材=チームとのつきあいが始まる。1996年からアナウンサーとして実況を担当。ディレクターとしては、スポーツニュースなど、これまでに2000本を超えるサッカーのVTRを編集している。その中には2009年12月「ベガルタ最後のJ2物語」がある。二度とJ2に戻らないよう願いを込めたタイトルだったが…。今はJ1復帰特番を作りたい気持ちが強い。
初めての取材は、1995年5月7日、佐賀県総合運動場で行われた鳥栖フューチャーズ×ブランメル仙台。4対3で敗戦。1995年から今年にかけて、担当を外れていた2年間を除くと、チームとのつきあいは28年目になる。
そんな私がベガルタについて聞かれたとき、真っ先に浮かぶのが「サポーター」の存在だ。プロサッカー選手であるならば、誰もが、サポーターのおかげ、サポーターのために、という言葉を口にするが、仙台ほど、サポーターのおかげでやってきたクラブは少ないだろう。
1997年には、クラブの経営状態が悪化。累積赤字が膨らみ、存続の危機に立たされた。するとサポーターは署名を集めて、当時の浅野県知事に直接手渡し、存続を訴えた。
1999年J2参入とともにクラブ名が「ベガルタ仙台」に変わると、今度はサポーターの中から「ベガルタ仙台市民後援会」が誕生し、サポーターとクラブの橋渡しとしての役割を担った。
後援会の名前に「市民」の二文字が入っていること、会長をさとう宗幸さんにお願いしたことが大きなポイント。
世の中に対して、「ベガルタ仙台」というクラブを決してつぶさせないぞ、という意思表示のように感じた。(市民後援会理事長は21年後、ベガルタの社長に就任するのだが、それはまた別の話)
そんなベガサポの心意気に、ぴたりとハマったのが清水秀彦監督。気さくな方で、サポーターのイベントにも快く参加してくれた。私がサポーターの芋煮会にお邪魔した時も、すでに清水監督の姿があった。
「芋煮会やるから来ませんか?」と誘ったら、「行く!」と即答だったとのこと。サポーターと一緒にいる時の清水監督は、よく笑い、よく話した。取材や練習見学のルールもまだまだ整っていなかった時代だが、それだけにアットホームだった時代。監督や選手は連日メディアの取材を受けて、サポーターのサインにも毎日応じていた。財前宣之や千葉直樹がひたすらサインする姿を見て、腱鞘炎にならないのかな?と心配したくらい。監督も選手も、サポーターとの距離はすごく近かった。
2001年、マルコスや岩本輝雄の活躍もあるが、この頃一層パワーアップしたサポーターの声援も、チームの快進撃を支えたのだと信じている。
2001年11月11日、鳥栖に逆転負け。J1昇格に王手をかけながら痛い敗戦だった。
この日はホーム最終戦ということで、試合後にサポーターの打ち上げがあり、私も参加していた。すると幹事の1人Iさんが言った。加川さん、皆に挨拶して頂けませんか?
ギョギョ~。これは大変なことになった。職業柄、自慢できることではないが、人前で話すのが苦手なのだ…。
大勢のサポーターが私のほうを向いていた。一番前列を見ると、日頃から取材でお世話になっているKさんがニヤニヤ笑っていた。
付き合いが長い分、彼は私の性格を把握しているのだろう。
仕方がない。私は開き直って、大きな声で言った。
「khbの加川です。皆さん、きょうは残念でしたが、まだチャンスはあります。来週の京都戦も全力で応援しましょう!そして…西京極の奇跡を起こしましょう!」
ワ~っ!という歓声が沸き起こった。まあまあウケたような気もした…。しかしベガルタが最終戦で京都に勝っても、山形が負けない限りJ1昇格はない。ギャンブルであるならば、ベガルタのJ1昇格に賭けるほうが、確率は低いのだが…。また来年チャレンジしましょう、と言える雰囲気ではなかったし、私もまあまあ酔っていたし…。それにしても「西京極の奇跡」とは…大きく出たものだ。
その時、頭の中で考えていたことは一つ!偉そうなことを言って超恥ずかしい。昇格を逃したら合わせる顔がない。その場合は、とりあえず逃亡しよう!来シーズン開幕まで3ヵ月間は、この人たちと顔を合わせないし、開幕後しばらくは、変装してスタジアムに行こう、念のためサポーター席には近寄らないようにしよう。そう考えたら生ビールが一段と旨くなった。
ところが11月18日…西京極に奇跡は起こった。終了間際の財前宣之のゴールには鳥肌が立った。だがそれ以上に、選手入場時にサポーターがお互いの手を握って「カントリーロード」を熱唱した光景は、私にとって忘れられない名場面だ。
数日後、サポーターの祝勝会に出席した。場合によっては10ヵ月くらい会わないつもりだった人達と、こんなに早く再会出来て嬉しい、と思ったが口には出さなかった。
この時、隣で結婚式の2次会が行われていた。もちろんアカの他人。その新郎新婦の入場時、サポーターはお互いの手を握って、カントリーロードを熱唱したのだ。愛すべき人たちだ、と思った。
2003シーズン限りでJ2降格…。再びJ1昇格を目指すことになったが、サポーターの熱く、楽しい応援は衰えなかった。
この“楽しい”ところもベガサポの良いところだ。
2007年2月、シーズン開幕を目前に控えたある日、大崎市内であるイベントが開かれた。その名は…「正調ロペスダンスの踊り方講座」
企画したのはベガルタ市民後援会だ。市民後援会は流行に敏感だった。(例えばこの頃〇〇検定が流行ったが、後援会は早速ベガルタ検定を実施。私も挑戦したが…見事に落ちた。ユアスタのビジョンの縦・横の長さは何メートルか?など…かなり難しかった(涙))
「ロペスダンス」は、2006~07年に在籍したロペス選手を応援するダンス。「ロペス、ローペス、ゴーゴーゴ~♪」で始まり、隣り同士、みんなが肩を組む、見ていても楽しく、盛り上がるダンスだった。
「リャンダンス」に匹敵する魅力的な応援だが、リャンダンスよりも寿命が短かったため、今や伝説のダンスである。
冒頭に両手を交差させる動作がけっこう難しそうだった。
「踊り方講座」の講師はNっきいさん。
ダンスの誕生秘話、正しい腕の動かし方を説明していた。私は持参したカメラで撮影した。講座が終盤に差し掛かると、司会者が言った。
受付時に渡した番号をご覧ください。番号を呼ばれた10人の方は前に出てきてください。
あっ!当たってるじゃん。
私は当たりだったが、名乗り出なかった。人前に出るのが苦手なのだ。
惜しいがプレゼントは我慢しよう。すると司会者が言った。
ではお一人ずつ、ロペスダンスを踊って頂きま~す!
ぎょぎょぎょ!危なかったぁ、助かったぁ
私は当選?した人たちのダンスを他人として見守った。爆笑とともにダンスが終ると、今度はモニターにベガルタの選手が背番号順に映し出された。会場の皆が一人ひとりの名前をコールする。
今だ。こっそり帰ろう、と思いながらその場にいると・・。
モニターに突然、私の顔写真が映し出された。
場内に響く「加川コール!」
私は丁寧に頭を下げお礼を言ったが、内心ではセーフ!こっそり帰らなくて良かったぁ…危うく失礼な人間になるところだった。
間一髪で良い人のまま、会場を後にすることに成功した。
VTRを編集していると、Nっきいさんの本名を知らないことに気づく。
親交のあるサポーターK谷さんに電話で尋ねた。
「知りません。サポーター同士は本名で呼び合わないから(笑)」
勉強になる人たちだ、と思った。
2011年東日本大震災を経験して、より一層サポーターの行動力・団結力を感じることになった。震災直後、梁勇基、関口訓充が出場したチャリティーマッチ。取材には行けなかったが、試合中継を見て驚いた。
♪ゴー!行くぞ、ニッポン!…ベガルタの歌じゃん。歌詞のベガルタのところをニッポンに代えて歌われていた。
そして…ユアスタでお馴染みの横断幕が中央に貼られていた。ベガルタのダンマクじゃん。お願い、カメラもうちょっとそっちを映してくれ~。後に聞いた話では、サポーターの1人が車にダンマクを積み、はるばる大阪まで運んでくれた、そうだ。東北新幹線は動いてなく、仙台市内ではガソリンも満足に手に入らない時期だった。
画面に映るダンマクと、時折聞こえてくるチャント(応援歌)に元気をもらった人は多いと思う。後日、ユアスタに支援物資を持って集まってきたサポーターの皆さんを取材させて頂いた。現場には、他クラブのサポーターが送ってくれたというたくさんの物資もあった。
復興のシンボルになろう、希望の光を照らそう、とチームも頑張った。
2012年には手倉森誠監督のもとJ1で2位。
2018年には渡邉晋監督のもと天皇杯準優勝。
サポーターの活動、熱のこもった声援が選手に力を与えたことは間違いない。…しかし2021年、ベガルタ仙台2度目のJ2降格。J1で力をつけていたベガルタだが、残念な結果に。この年は担当を外れていたので、取材ではなく一般客として観戦した。この頃は、ユアスタの雰囲気が以前とはまるで違うと思った。
やはり声出し応援が出来ない=声援がないのは痛かった。
ベガルタにとって、コロナの影響はより大きかった。
たしかにコロナ禍における応援の条件は全チーム一緒なのだが、ベガサポの皆さんなら理解してくれると思う。「声援」があって、ユアスタ独特の雰囲気の中での「後押し」があれば、1試合ごとの結果は随分違っていたはずだ。サポーターが選手に与える力は、他チームよりも大きいのだと。
2024年J2に降格して3シーズン目、ユアスタには一体感が戻ってきた。今、ベガルタは好位置につけ、J1昇格争いに加わっている。若い選手たちがサポーターの期待に応え始めたのだ。森山監督が命名した「勝利のダンス」も良い。シーズン終盤の戦いが一層楽しみだ。
※執筆陣の原稿をそのまま活かして掲載しています。