ベガルタ仙台クラブ設立30周年
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30年の軌跡

ベガルタ仙台の30年間の戦いと、
その舞台裏をみてきた関係者が
それぞれの視点で綴る
「ベガルタ仙台 30年の軌跡」

VOL.03

フリーランスライター

板垣晴朗

板垣晴朗

1974年1月8日生まれ。このクラブとの関わりはブランメル仙台時代の1996年に、ピエール・リトバルスキーのプレーを見ようと宮城陸上競技場(※現・仙台市陸上競技場、弘進ゴムアスリートパーク)でのJFL開幕戦に行ってから。
仕事では執筆業を始めた2004年からEL GOLAZO、サッカーダイジェスト、Jリーグ公式サイトなどでマッチレポートを執筆している。国内他カテゴリーやブンデスリーガの現場に赴くこともある中で、中心に据えているのはJリーグのベガルタ仙台。
ノンフィクションでは『在る光 3.11からのベガルタ仙台』など、フィクションでは大衆娯楽小説『ラストプレー』を上梓。

x/30, 30/y
x=?

x/30。
あなたのxにあてはまる数を述べよ。xはベガルタ仙台の30年の歴史の中で、あなたがこのクラブに関わってきた年数とする。xは過去に関する数である。
ベガルタ仙台がクラブ設立30周年を迎える。あなたは、この30年のうちどれほどこのクラブと関わってこられただろうか。それぞれのxに当てはまる値がまだ1にならない人にとっても、最大値の30の人にとっても、そのxの中には様々な記憶がある。

ブランメル仙台時代を彩ったひとり、ピエール・リトバルスキー

xから伝えること

私にとってのxは、初めてスタジアムにブランメル仙台(当時名称)の試合を見に行ったのが1996年のことだから、29になるだろうか。仕事で関わるようになったのは2004年だから、その場合は20か。より深く関わるようになったという点で言えば、こちらのxの値が正しい。秋にはその値が21になる。初めて商業媒体で執筆した2004年11月1日の記事は同年J2第40節のマッチレポートだったのだが、それの見出しが「仙台 昇格消える…」という縁起でもないものだったことを忘れることは多分ないだろう。

引き分けで同年のJ1昇格の道が断たれたときが、私のレポートの始まりだった

デビュー作は苦い試合のレポートだったし、その後にも長く苦しいJ2暮らしが続いたけれども、その過程で様々なクラブ史の瞬間を現場で感じ、伝えることができた。たとえば、xの値が合計18になった梁勇基という選手が2008年のJリーグで最後のゴールを決めたJ1・J2入れ替え戦第2戦の場に居合わせたこともあれば、J1昇格を果たして迎えた2010年のJリーグで最初のゴールを決めた第1節・磐田戦の熱気を伝えたこともある。勿論、その間の2009年に、J1昇格を内定させた試合も、J2優勝を決めた試合も。
歓喜の瞬間も苦い経験も、挙げればきりがない。クラブ史の中で困難な時期は少なくなく、たとえばJ2下位に終わった昨シーズンは最悪といえば最悪だったのかもしれないが、最も苦しかったのは成績が低迷することよりも、そもそもプレーができるのかどうかもわからなくなること。2011年の東日本大震災発生から間もない頃のチームの表情も、その後に立ち直ってJ1の優勝争いやアジアでの試合に乗り出したことも、記憶に焼き付いているし、伝えられることを伝えてきた。

またベガルタ仙台がJのピッチに戻ってきた、あの日

私はこの仕事を始める前は、2001年J2最終節における“西京極の歓喜”も、2003年J1 2ndステージ最終節における“大分の涙”も、遠くからの中継を眺める立場だった。この仕事に関わる限りは、あのときにできなかった現場での人々の表情や雰囲気をできるだけ感じるとともに、場に行けなかった方にそれを伝え続けたい。クラブ史上の節目だけでなく、様々な記憶を。

“西京極の歓喜”を体感した方々の土産話が楽しく、羨ましかった

xから伝わること

あなたの場合はどうだろうか。それぞれのxの中には、様々な歴史的瞬間がある。先に挙げたクラブの節目の試合もそうだし、あなた自身の人生における節目の試合もそうだし、その人その人の歴史がある。
試合で笑ったとき。泣いたとき。初めて試合や練習を見に行ったとき。自分自身がちょっと良くない日を過ごした後でも、試合を見て、明日からまたがんばろうと思えたとき。試合が散々な結果に終わっても、そのなかで後にファンになる選手が初出場を果たしたとき。試合結果を覚えていないけれども、試合後になんだか賑やかな選手がスタンドのサポーターと一緒に歌ったり踊ったりしていたとき。ベガッ太やルターナと触れ合ったことのインパクトが強すぎたとき。スタジアムに着いたらちょうどベガルタチアリーダーズのパフォーマンスが始まったとき。座席がどこか迷っていたら、ボランティアの方々に温かい声をかけてもらったとき。スタジアムで食べたご飯が美味しかったとき。試合会場で人生をともにする友人やパートナーと出会ったとき……

ほろ苦いデビュー戦も、伝説の選手の貴重な一歩

喜びを分かち合う思い出は尊いものだ

比類なきマスコットもまた、クラブの歴史を紡ぐ者

xはただの数値ではない。そこには、このクラブとそこに関わってきた人達がともにした濃密な時間が詰まっている。
ベガルタ仙台はこの30年間で2009年のJ2優勝以外のタイトルを獲得したことはないし、強豪であり続けたわけでもない。ピッチ内外それぞれにおいて低迷の時期も少なくない。山あり谷ありの30年間だけれども、その歴史は関わってきた人達にとって大切な瞬間が無数にあり、関わってきた人の数だけクラブ史がある。
そしてこのxの中で起こってきたことは、これから先の歴史にもつながる。

y=?

30/y。
私たちはこれから、yにあてはまる数字を求め続けることになる。
30年の間に、こうした悲喜こもごもの出来事があった。このクラブの歴史は続く。関わる人が成長したり、立場が変わったり。離れる人もいるかもしれないが、新しく関わる人も加わる。それぞれの思いが引き継がれ、続いていく。選手だった人が指導者になってこのクラブに関わったり、スタンドのサポーターやピッチ脇のボールパーソンだった人が選手としてピッチに立ったり、長く仙台を離れていた人が様々な経験を経て仙台のベンチに戻ってきたり。親子数代のサポーターもいるだろう。

選手としてプレーしていた者たちが、指導者として再びベンチに

あのチームに憧れていた少年たちが、選手として憧れられる存在に

yの値はこれから大きく、長くなっていく。その過程ではまた紆余曲折はあるだろうし、驚くような大躍進もあるだろう。これから先のクラブ史において、設立からの30年の位置づけは、どのように変わっていくのだろうか。yの値が変わるたびに、思い出したい。yは未来に関する数である。
クラブ設立30周年をお祝い申し上げます。今後ともよろしくお願いいたします。

これからも、ベガルタ仙台の歴史は続く

※執筆陣の原稿をそのまま活かして掲載しています。