ベガルタ仙台の30年間の戦いと、
その舞台裏をみてきた関係者が
それぞれの視点で綴る
「ベガルタ仙台 30年の軌跡」
1976年3月8日生まれ。静岡県静岡市清水区出身。清水東高を卒業。2006年より宮城県仙台市を拠点にフリーライターとしてサッカーの取材を始め、ベガルタ仙台(2006年から)、福島ユナイテッドFC(2016年から)といったJリーグクラブの取材の他、少年から高校までの東北の育成年代、またアマチュアや女子サッカーなど幅広いカテゴリーで取材を行っている。『サッカーダイジェスト』、『サッカークリニック』、『河北スポーツマガジンStandard宮城』、『岩手スポーツマガジンStandard』、『青森ゴール』などの雑誌や、サッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』、Jリーグ公式サイト(福島担当)、『ゲキサカ』などWeb媒体に寄稿。2017年聖和学園高男子サッカー部加見成司監督著書『聖和の流儀』(カンゼン刊)の構成も担当。ライター業と共に、2012年より仙台市内の私立高校で非常勤講師として理科(生物・化学・地学)の授業、2021年より仙台市内のスポーツ関連の専門学校で『スポーツメディア論』『プレゼンテーション演習』の授業も担当している。
私の生まれは静岡県静岡市清水区、私のいた当時は清水市だった。言わずと知れたサッカーの街で、全ての小学校には夜間照明と防球ネットが設置され、各小学校ごとにサッカー少年団があった。まだJリーグが創設されていなかったが、ヤマハ発動機(現在のジュビロ磐田)や中央防犯(現在のアビスパ福岡の前身)、本田技研(現在のHonda FC)などの試合がテレビ放映されていた。そして何より高校サッカーがたくさん報道されていた。私の卒業した清水東高をはじめ、清水商高(現在の清水桜ヶ丘高)、東海第一高(現在の東海大翔洋高)、静岡学園高、藤枝東高などから後に多数のJリーガーが生まれ、私が清水東高にいた頃も後にJリーガーとなった先輩、後輩がいた。生まれもって虚弱体質で体力の無かった私はプレーヤーになるのは厳しかったので、サッカーに関わりたいという思いで清水東高の新聞部に入り、サッカー部の取材を行い、現在サッカー日本代表コーチを務める齊藤俊秀さんや、高校卒業後直接清水エスパルスに加入した田島宏晃さんなどを取材した。生まれてから18年間サッカーが日常に溶け込んだ街で過ごした。
このような街から宮城県仙台市に引っ越したのは1994年。高校時代の担任の勧めで東北大学に入学した。その当時はJリーグ立ち上げ間もないサッカーブームの時期ではあったが、仙台にJリーグクラブが無かったこともあり、サッカーの話をする友達は少なかった。そんな中、テレビのニュースでJリーグ加入を目指してブランメル仙台が立ち上がったことを知る。
当時はクラブを懐疑的に見ていた。サッカーが日常に溶け込んでいない街で果たしてJリーグクラブが成り立つのだろうかと思った。たまにテレビ中継を見てみると、苦しい戦いを強いられてる様子が流れていて、やっぱりJリーグに上がるのは大変だなという印象だった。そんな中、大学4年時に配属になった研究室の准教授(当時は助教授)が熱烈なサッカーファンでブランメル仙台をよく見に行っていて、研究室総出での観戦会を開いてくれた。当時強いとは言い難かったが、オープンしたばかりの綺麗なスタジアムであった仙台スタジアム(現在のユアテックスタジアム仙台)で、選手が一生懸命プレーする姿を見て感銘を受けてから、ブランメル仙台に興味を持つようになった。
1998年大学を卒業し、東京に出た後、ブランメル仙台、翌年名を変えJ2リーグに参入したベガルタ仙台の関東アウェイの試合をよく見に行くようになった。そんな中ふと「このクラブにもユースが存在するはずで、一体どんなチームなんだろう」という思いが生まれた。静岡で育ち、高校サッカーをよく見ていた私としては、ベガルタ仙台ユースがどんなチームなのかを知りたくなったのだ。
1999年の秋に行われたJユースカップという大会で、柏レイソルU-18vsベガルタ仙台ユースという試合が行われることを知り、柏へ足を運んだ。その試合は柏U-18と力の差こそあったが、仙台ユースが勝利した試合だった。その中でひときわ輝きを放っていたのが、現在トップチームコーチを務める西洋祐だった。高校1年ながら体格に恵まれ、正確なパスでチャンスをつくる西を見て、「こんなに良い選手がいるのか」と驚いた。これがベガルタ仙台ユースとの出会いであり、その後25年にわたりベガルタ仙台アカデミーを見続けるきっかけとなった。
クラブの立ち上げはアカデミーの立ち上げでもあり、ベガルタ仙台は若いプロサッカー選手を育成しようと動き出していたことを知った。1999年はブランメル仙台ユース出身のDF今川元樹、DF佐山敏が初のトップ昇格を果たした年でもあった。2年間プレーし、ユースからトップへという流れをつくった意味では、2人の存在は大きなものだった。
2001年にはMF斎藤太一郎がユースからトップ昇格を果たしたが、出場機会無く1年でチームを去った。同期のMF斉藤紀由は大学経由でさまざまなチームでプレーし、ロアッソ熊本のJFLからJ2昇格に貢献し、J2リーグでもプレーした。
その後前述の西が2002年、クラブが史上初のJ1昇格を果たした年にトップ昇格を果たした。しかしながらなかなか公式戦に絡むことができず、J2降格した2004年にリーグ戦5試合に出場するもこの年いっぱいでチームを離れ、以後はグルージャ盛岡(現在のいわてグルージャ盛岡)やソニー仙台FCで活躍し、2011年まで現役選手としてプレーした。ただ、翌年からベガルタ仙台アカデミーコーチとして研鑽を積み、昨年夏からトップチームコーチとして、クラブを支える人材となったことは非常に嬉しいことだ。アカデミー黎明期を支え、クラブの歴史を知る西の指導者としてのさらなる飛躍を願っている。
その後ユースで頭角を現したのはFW大久保剛志である。得点感覚に優れたストライカーとして期待され、2005年トップ昇格を果たした。しかしやはりプロの壁は厚く、2008年から2010年まではソニー仙台FCへ期限付き移籍。2011年再びベガルタ仙台に復帰するもこの年でクラブを離れることとなった。その後ソニー仙台FCやモンテディオ山形でプレーした後、2014年から活躍の場をタイに移し大活躍を見せる。37歳となった今もタイで現役選手として活躍しつつ、タイと宮城県仙南地域で育成組織YUKI FOOTBALL ACADEMYを主宰し、若い人材の指導にも力を入れている。
2005年ユースはJユースカップで初めてグループステージを突破し、ノックアウトステージ進出を果たす。原動力となったのは当時高校1年ながら大久保から引き継いだ背番号10を背負い攻撃の核となったMF奥埜博亮(現セレッソ大阪)であった。奥埜は高校3年の2007年は負傷が多かったこともあり、2008年から仙台大でプレーする。大学2年から特別指定選手となり、2012年トップに加入。2013~14年V・ファーレン長崎への期限付き移籍後2018年まで主力選手として活躍するが、2019年セレッソ大阪に移籍し、34歳の今もなお主力選手として活躍している。今は仙台に在籍していないが、奥埜はこの30年間での最高傑作と言って良い選手だろう。
2007年にトップ昇格を果たしたFW鈴木弾はスピードに乗ったドリブルが武器の選手だったが、トップ昇格後に大ケガを負い、その後自慢のスピードが戻らず、2009年グルージャ盛岡でプレーした後、大学進学した。
こうして2000年代のユースは優秀な選手、トップ昇格を果たした選手もいたが、2010年代中頃以降に活躍した奥埜以外、主力選手として定着する選手が出なかった。また、東北で上位の地位を築くのは早かったのだが、全国大会でなかなか勝てず、日本クラブユースサッカー選手権(U-18)大会ではグループステージ敗退が続いた。
2010年トップはJ1再昇格を果たす。そして翌年2011年ユースにとって大きな出来事となったのが、かつてトップで選手として活躍した越後和男の監督就任だった。就任1年目は震災の影響もあり、戦術の浸透に苦しんだが、当時のエースだったMF越後雄太が翌年トップ昇格を果たした。越後は天才肌のパサーだったが、トップでは出場機会を得られず2013年いっぱいでチームを離れた。
越後監督就任の影響が出始めたのはその翌年だ。かつて一度もグループステージ突破できなかった日本クラブユースサッカー選手権(U-18)大会で、初のグループステージ突破を果たし、ラウンド16でセレッソ大阪U-18に勝利し、ベスト8進出を果たした。その原動力となったのは、今年初めてJ1でプレーしている東京ヴェルディDF千田海人、ファジアーノ岡山GK堀田大暉であった。いずれも大学進学後にプロ入り。千田や堀田はJ3クラブから順調にステップアップし、今なお成長を見せている。彼らと越後監督が一つ扉を開き、ユースは全国大会でもたくましく戦い、躍進できるようになった。
2015年にトップ昇格したのは、MF茂木駿佑。トップ昇格後のJ1リーグ開幕戦でデビュー。その後は水戸ホーリーホック、FC琉球とチームを渡り歩き、愛媛FCでは主力として活躍し、昨年のJ3優勝に貢献した。また、この年はユースが日本クラブユースサッカー選手権(U-18)大会で史上初のベスト4進出という快挙を成し遂げた。その原動力となり、翌年トップ昇格を果たしたのがMF佐々木匠、DF小島雅也であった。
佐々木は初のジュニア、ジュニアユース、ユースと小学生年代からベガルタ仙台アカデミーで育ちトップ昇格をつかんだ選手。天才的なドリブル、パスで攻撃を活性化させる選手として、ユース時代からサポーターの期待を一身に集めた。さまざまなJ2クラブに期限付き移籍した後、トップチーム復帰を果たしたが主力定着にはいたらず2021年でチームを去り、その後愛媛FCで2年間プレー。現在はマレーシアでプレーしている。
小島は身体能力の高いサイドバックとして活躍。2017年までベガルタ仙台でプレーし、その後はFC町田ゼルビア、ツエーゲン金沢に期限付き移籍した後、2020年にザスパクサツ群馬(現・ザスパ群馬)に完全移籍。昨年から再び金沢でプレーしている。その他この代はブラウブリッツ秋田FW吉田伊吹、栃木シティFCGK田中勘太、ブリオベッカ浦安MF村越健太、ミネベアミツミFCMF縄靖也など今も活躍している選手が多い。
越後監督は2017年マイナビベガルタ仙台レディース監督に就任したため、その年は原崎政人監督が指揮を執り、MF荒井秀賀が翌年栃木SCに加入。現在はJFL沖縄SVでキャプテンを務めている。2018~2020年は壱岐友輔監督(現・アビスパ福岡アカデミーヘッドオブコーチング)が指揮を執った。この時期ユースで活躍したのが現在トップに在籍してるGK小畑裕馬、MF工藤蒼生、FW菅原龍之助、MF工藤真人である。小畑は直接トップ昇格、その他3人はいずれも大学卒業後にトップに帰って来ており、ユース卒業後大学経由でトップへ復帰する流れも確立されてきている。また、FC町田ゼルビアFW芦部晃生、SC相模原DF山下諒時、福島ユナイテッドFCMF粟野健翔、FW清水一雅のように他のJクラブで活躍している選手もこの時期ユースで活躍した選手たちだ。
また、ジュニア、ジュニアユースでプレーし、2014年の途中で青森山田中に移り、その後青森山田高、ヴィッセル神戸でプレーしたMF郷家友太が昨年トップに帰って来るといったことが起きたこともクラブにとっては大きな出来事だったと言える。
2010年代はトップがずっとJ1で戦っていた時期であったが、この時期ユースは大きく飛躍し、全国大会で強豪相手に勝つことや、アカデミー選手がプロ選手になることが現実的な目標となった時期だった。
ユースは2021年木谷公亮監督が就任した。これまで以上にポゼッション、ビルドアップ、個人技にこだわるサッカーを志向し、就任1年目はコロナ禍で思うように練習や試合ができなかったこともあり苦しんだが、年を追うごとに成績は向上。就任3年目の昨年は日本クラブユースサッカー選手権(U-18)大会で8年ぶりのグループステージ突破、全国ベスト16入りを達成し、4年ぶりのプレミアリーグプレーオフ出場も果たした。
今では全国大会でも全く物怖じせず、強豪相手にも自分たちのサッカーをぶつけられるようになった。2010年代は全国大会で守って耐えて勝つ試合が多かったが、攻撃的に試合を進めて勝つ試合も出てきた。昨年末のプレミアリーグプレーオフ1回戦は、私の故郷のクラブ清水エスパルスユースとの対戦だった。先制されるもすぐに追いつき、逆転。そして追加点を奪って3-1の完勝だった。この30年もの間に仙台の地にサッカーが根付き、1970年代からサッカーの街として知られた地域のクラブとこうして良い勝負ができるチームになったことは驚くばかりであり、非常に感慨深い。ベガルタ仙台がこの30年間歴史を積み上げてきたからこそ、こうした大きな大会で勝利できるようになった。
こうしてアカデミーの歴史を紐解いていくと、苦難の歴史ではあったが地域に定着し、アカデミー出身のプロ選手も増えた。前述の通り、今のトップチームには5人のアカデミー出身選手が在籍しているのは喜ばしいことだ。
ここから先はプロになるだけでなく、チームの中心となる選手がどんどん出てきて欲しい。昨年から前述の郷家が主力として活躍し、今年からは前述の工藤蒼が多くの試合に出場しているが、絶対的なチームの中心選手という存在を勝ち取ってもらいたい。そして年代別代表、やがてはフル代表で活躍し、世界を舞台に活躍できる選手が出てきてもらいたい。今のベガルタ仙台アカデミーは、ジュニア、ジュニアユース、ユース共に活気があり、そうした選手が出てくる可能性は大きくなっている。加えて現在トップを率いる森山佳郎監督は長らく育成年代を指導し、年代別代表監督経験も長いので、アカデミーのことも常に気にかけてくれており、アカデミーには今、大きな追い風が吹いてると言って良いだろう。
今後再びJ1昇格を果たし、J1に定着し、J1でタイトルを獲るクラブになるためには、アカデミーのさらなる飛躍、発展は必須だ。アカデミーがチームの軸となる選手を育て上げ、30周年を迎えたベガルタ仙台がさらに飛躍することを心から願っている。
※執筆陣の原稿をそのまま活かして掲載しています。