ベガルタ仙台の30年間の戦いと、
その舞台裏をみてきた関係者が
それぞれの視点で綴る
「ベガルタ仙台 30年の軌跡」
大学卒業まで仙台で生まれ育ち、今は神奈川県在住、ベガルタ仙台と日本代表のサポータ。マラドーナと同年同月1960年10月に生まれた63歳。
中学から本格的にサッカーを始め、高校時代はインターハイ県予選決勝まで進出。大学時代は、東北地区大学サッカー連盟幹事長などの業務をこなしつつ、インカレまで行くことができた。
社会人になり、日本サッカー狂会に入会、1985年メキシコW杯予選アウェイ香港戦(終了間際の原博実の決勝ゴールで快勝、試合後敗戦に怒った香港サポータに囲まれ警官隊に保護された曰くつきの試合)でサッカーの魔力にはまる。
若い頃の夢「代表チームがアジア王者になること、W杯に出場すること、故郷の仙台にプロフェッショナルのサッカークラブができること」はすべて叶ってしまった。
週末は、近所のサッカー少年団で小学生を指導。他人様の子供に遊んでもらいながら、サッカーを楽しむ日々。
生まれ育ち学生時代まで過ごした仙台。遠くに蔵王連邦と泉ヶ岳、近くに太白山、市街地の広瀬川の流れ。東一番丁や中央通の賑わいと国分町のイルミネーション。その故郷を離れてから40年近い日々が経った。そして、今では、毎週末のベガルタ仙台の奮闘が、故郷と私の一番の接点となっている。まずは、私の愛するサッカークラブが、30周年の節目を迎えたことに敬意と共に感謝の言葉を捧げたい。
「おめでとうございます、そして、ありがとうございました」
本稿では、その感謝の積み重ねを振り返る。記憶と言うのはおもしろいもので、「勝った」と言う歓喜、「負けた」と言う痛恨、ピッチ上での鮮やかなプレイなどにとどまらない。様々な形で心に残っている私なりの30年間を講釈してみたい。
例えば、2001年11月18日、J1初昇格を決めた京都パープルサンガ戦。もちろん、90分の財前宣之の反転ボレーや試合終了直後の歓喜は最高だった。同様にその直前の場面の大エースのマルコスの挙動が忘れられないのだ。何としても点が欲しいベガルタ、87分左右の大きな崩しから、マルコスがネットを揺らした。
大歓喜、と思ったが直前のプレイで主審が笛を吹いていたためノーゴール判定。ユニフォームを脱いでの歓喜後の、マルコスの憮然とした表情、そして直後「では戦おう」と切り替わったあの顔つき。このベガルタ史に残るストライカの得点の数々には幾度も歓喜したが、一番記憶に残っている私のマルコスは、このノーゴール直後の「では戦おう」なのだ。
例えば、遠藤康とフォギーニョ。対象的な特長を持つ2人の出会い。優雅な技巧と冷静さが持ち味の地元出身の大スター。ボール扱いは今一歩だがガッツと運動量が格段のブラジル人。それぞれを育んだ宮城県サッカー界の向上とブラジルサッカー界の奥深さ。2022年5月15日のホームツエーゲン金沢戦では、遠藤の鮮やかな妙技の演出で、フォギーニョが長駆と出足のよさを活かし2得点を決めた。たとえJ1でなくとも、これほど深淵なサッカーの魅力を堪能できるのだから堪えられない。
例えば、2013年5月1日、ACL1次ラウンドでの敗退が決まったホーム江蘇舜天戦、底知れぬ悔しさはもちろん忘れ難い。もう1つ、あの試合は、南アフリカW杯の準決勝で笛を吹いたウズベキスタンの名レフリーのイルマトフ氏が、私たちの日本最高のスタジアムに来臨した記念すべき試合でもあった。ところが、イルマトフ氏は信じ難いミスジャッジ。エースストライカのウイルソンの敵DFとの交錯を、報復と見誤り赤紙を出したのだ。私たちの大切な大切なACLが、世界最高峰の主審の誤審でまさかの終わり方をしてしまった。もちろん、このような理不尽もまたサッカーの魅力なのだけれども。
もちろん、単純に歓喜した忘れ難い場面も数多い。中でもJ1への再昇格を決めた2009年は幾多の名場面を堪能することができた。
11月22日、既にお互い昇格を決めていたセレッソ大阪との優勝を争う直接対決。双方無得点のままアディショナルタイムにもつれこんだ94分。右オープンに千葉直樹が進出、決して処理が簡単ではない浮き球のパスを落ち着いてトラップ、丁寧によく腰を入れたクロス。そこに逆サイド左DFの朴柱成がドカドカと進出し見事なヘディングを決めた。ユアテックスタジアム20,000人の大絶叫。
この嬉しかったシーズン、千葉の輝きは格段だった。最終的にはJ2を制した訳だが夏場は苦しい試合の連続。中でも、8月5日敵地での横浜FC戦は、選手達の疲労も溜まったいたのか、内容もひどく0-1で完敗、先々への不安はつのるばかりだった。続く8月9日ホームの愛媛戦の前半も、試合内容は低調で押されっ放し。ところが29分にCKから千葉が見事なヘディングシュートを決め、その勢いで3-1で勝ち切ることに成功、以降快進撃が始まる。チームの一番苦しい時期を助けてくれた千葉の美しいジャンプヘッドを忘れることはできない。
その年の天皇杯準々決勝、12月12日ユアテックでの川崎フロンターレ戦の延長108分、関口訓充の巧妙な切り返しからのクロスを平瀬智行がヘディングシュート。山なりに飛んだボールは日本代表GK川島永嗣が必死に伸ばす手を越えネットを揺らした。その約1年前忘れたくとも忘れられないジュビロ磐田との入替戦アウェイゲーム。0-1でリードされていた70分過ぎ、平瀬の狙いすました山なりのヘディングシュートは、GK川口能活に見事なフィスティングで防がれ、J1復帰の夢は絶たれてしまった。
当時、GKとしての外に見える能力については、既に川島は川口を凌駕していたかもしれない。けれども、この平瀬との攻防を通じ、川島はまだまだ経験不足であることが示された。川島のその後は皆さんご存知の通り。平瀬はベガルタサポータに歓喜を提供したのみならず、日本代表サポータに「川島の成長のための失敗経験」を提供してくれたのだ。
加えて、このシーズン忘れられないのは木谷公亮。この年ベガルタのCBはエリゼウと渡辺広大でほぼ固定されていた。ところが、シーズン終盤の45節10月18日、当時2位だったベガルタとシーズン半ばから調子を上げ5位まで上がってきたサガン鳥栖との直接対決に、広大が警告累積で出場停止。代わって起用されたのが木谷だった。
木谷は当時31歳、前年まではレギュラとしてチームを支えていたベテランだが、当該シーズンはリーグ戦初出場。しかし、木谷は堂々たるプレイで引分け獲得に貢献、この難敵を振り落とした。定位置を奪われながらもシーズンを通して体調を整え、難しい試合での起用に応えたのだ。さらに、12月29日の天皇杯準決勝ガンバ大阪戦も、出場停止の広大に代わり再び木谷が登場。守備面での活躍に加え、関口の突破から中原貴之が決めた同点弾の起点となる好フィードを前線に送るなど、完璧なプレイを見せてくれた。
それにしても、この試合。遠藤保仁と明神智和を軸に前年ACLを制覇していた強豪を、あと一歩まで追い詰めたのだが勝ち切れず。もう少し幸運に恵まれれば、私たちは3シーズン前にACLに行くことができたかもしれなかったのだが。
先ほど、朴柱成について触れたが、私はこの左サイドバックが大好きだった。試合終盤スタミナ切れで動けなくなるし、再三敵の挑発にのって退場になるし、負傷すると長々と倒れ続けるし(ほんの2分後に回復するのだが)、試合中に熱中症で倒れると言うJリーグ史に残る迷場面を演じた事もあった。一方、守備時の位置取りの修正やラインの上げ下げを生真面目に行い、相手の攻め手の読みも中々で、組織守備の一員としての貢献は大きかった。そして何より、無骨なボール扱いの後に、左足から繰り出される精度の高いクロスボールに、幾度ワクワクさせてもらったことか。
朴を語れば、逆の右サイドからゴール前に飛び出す菅井直樹の色鮮やかなプレイを語らなければなるまい。攻撃がうまいサイドバックはたくさんいるが、菅井は点をとる能力が格段だった。その典型が、2014年11月29日J1残留を決めた徳島戦の2点目。富田晋伍の縦パスから野沢拓也がヒールで落とし、突然ペナルティエリアに出現した菅井が決めたもの。富田が縦に入れるより前に、菅井は挙動を開始し約40mを全力で前進することで、まったくのフリーでボールを受け、正確なボール扱いでGKまでかわし、落ち着いてネットを揺らした。「正にストライカ!」と言う一撃だった。
ただし、格段の得点力を誇りながら菅井はDFとしての守備能力も非常に高かったことも強調しておきたい。日本代表に呼ばれなかったのは残念だったが、その結果、菅井は私たちの黄金色のユニフォーム以外はまとわなかった事になる。
富田もまたベガルタゴールドしか身に付けなかったレジェンド。富田の魅力は、待ち構えて躊躇せず奪いしっかりつなぐ能力。さらに、戦術的柔軟性。手倉森政権時は、分厚い守備からの速攻の起点。一方で、渡邉晋氏の攻撃的サッカー時代は、自身自ら前線へ縦パスを繰り出すのみならず、周囲のフリーの選手にロングフィードを出させるパスも巧みだった。
2010年にJ1に復帰して以降、ベガルタは高橋義希、和田拓也、金眠泰と言った守備的MFを次々に補強した。しかし、彼らは富田との定位置争いに勝てず、早々にベガルタを去り、移籍先のクラブで活躍することになる。富田は定位置争いのライバル達に対して大きな壁となることで、彼らの成長にも大きく貢献したのだ。
定位置を奪えず他クラブに去る選手がいる一方で、中心選手がより経済的なメリットを求め他クラブに移籍するケースも多い。身も蓋もない言い方になるが、「もっとカネがあれば、彼らをつなぎ止めることができたのに」と、幾度切歯扼腕したことか。と言いながら、ベガルタを去った彼らの活躍を見るのは、ほろ苦さもあるがやはり嬉しい。
中でも、2018年12月9日の天皇杯決勝進出に貢献したシュミット・ダニエルと板倉滉は、海外クラブで経験を積み、カタールW杯代表に選考された。2人をドーハで応援できたのは、何とも誇らしい思い出だ。先日の国立競技場W杯予選北朝鮮戦、左腕に腕章を巻いた板倉が日本代表の精鋭を率いて先頭で入場した瞬間、思わず目頭が熱くなった。
また、島川俊郎、藤村慶太と言ったベガルタ時代にあまり出場機会に恵まれなかった選手が、他クラブで堂々と中心選手として活躍しているのも嬉しいことだ。ベガルタに関与した選手は皆、私たちサポータの宝物なのだから。
ベガルタに貢献してきてくれた多くのスターの中でも最も光り輝く存在は、やはり梁勇基。精度の高いプレースキック、正確なファーストタッチ、振りの速いシュート、豊富な運動量、攻守の切り替えの早さ、ボールを受ける位置取りのよさ。そして何より、プレイ選択の適切さ。こうやって書くと、サッカーの基本をただただひたすらに実現し続けたのが梁の凄さだったと改めて思う。
そして、2011年9月2日は半世紀に渡る私のサポータ歴でも忘れ難い日だ。埼玉スタジアムに北朝鮮を迎えたワールドカップ予選、いつも私たちに最高の歓喜を提供してくれている梁が、赤いユニフォームを着て敵の中心選手として日本に襲いかかったのだから。あの梁が、日本のゴールを目指し、ミドルシュートを狙い、CKを蹴り込んでくる。人生最高の恐怖感を、私たちベガルタサポータだけが味わうことができたのだ。
ここで改めて歴史を振り返る。30年前の1994年、前身の東北電力からブランメル仙台に転身した私たちのクラブ。この黎明期を彩った2人の元日本代表MFについて語っておきたい。
1961年生まれの亘理町出身の鈴木淳。仙台向山高の2年生時にユース代表(今日のU20代表)に抜擢された。その後、筑波大を経てフジタ(現湘南ベルマーレ)に加入後、すぐに日本代表にも招集された。上半身がスッと立った姿勢のよいドリブルから、正確なパスを繰り出しシュートを狙うプレイは魅力的だった。
1965年生まれの越後和男は名門古河(現ジェフ千葉)で10代から中盤の指揮官として活躍、20歳でA代表マッチにも抜擢された。視野が広く、ロングパスでの展開もできるし強烈なミドルシュートが打てる。さらに自らが動くことでチームメートにスペースを提供できる。
しかし、この2人の共通の不運は所属クラブの監督に恵まれなかったこと。代表に選考された頃は特長を活かす監督の下で光り輝いていたが、その後の監督は選手の特長を活かそうとせずに型にはめるタイプ。次第に2人とも往時の冴えがなくなってしまった。当時は移籍制度が整備されておらず、自分を活かしてくれるクラブへの転進も簡単ではない時代だった。その2人が、現役生活の最後をブランメルで戦い、チームの基盤を作ってくれた喜びと感謝は忘れ難い。
商標の関係でベガルタ仙台に改称した1999年、シーズン途中に就任した清水秀彦監督の下、ベガルタは、冒頭に述べたマルコスや財前の活躍もあり、2002、03年はJ1でプレイ。しかし、まだまだクラブとしての基盤は脆弱で2シーズンしかJ1の地位を保つことができなかった。
梁は、その翌年の2004年にベガルタに加入。以降6年間ベガルタは紆余曲折を経ながら、梁を軸にしたチームを作り、上記の2009年シーズンを経てJ1再昇格を決めた。さらに、梁は仲間たちと共に、私たちをACLにまで連れて行ってくれた。梁勇基と言うサッカー人と、ベガルタ仙台と言うクラブが出会ったことは、本当に幸せなことだったのだ。
J2での戦いも3シーズン目に入った。今シーズンは、工藤蒼生、高田涼太、石尾陸登、鎌田大夢、郷家友太、オナイウ情滋、相良竜之介、菅原龍之介と言った若いタレントを軸に、上々のスタートを切ることに成功した。ここまで講釈を垂れてきたレジェンド達に、彼らがどれだけ近づき、いや追い越してくれるか。この年末には30年間で3回目の(そして今後も永遠に続くベガルタ仙台史で最後となる)J1昇格の歓喜の大宴会を堪能できることを、確信するものである。
※執筆陣の原稿をそのまま活かして掲載しています。